拓友会設立の経緯と経過

 終戦間もない昭和21年8月、神田三崎町の桜門ビル内に日本大学卒業生による親睦機関として、『日本大学桜門倶楽部』(会長・太田為吉、事務局長・種村栄稔)が誕生した。(この倶楽部はのちに昭和24年『日本大学校友会』として全国的な校友組織となる)。

 当時、この倶楽部創設に、旧拓殖科卒業生の工藤正城・庄川洋一・小岩定雄の諸氏が幹事となり参画、日本大学校友会の再建に大いに尽力、協力した。

 翌昭和22年9月、当時桜門倶楽部幹事であった前記諸氏が中心となり、旧拓殖科卒業生の農学部職員牧野収(農場助手)・岡田正男・北川休・山田新一・竹山恵一郎・段志強・水川茂の諸氏が参加して、終戦後GHQ命令で中止となった『拓殖科』の卒業生同窓会を三崎町法文学部21番教室で開催、日本大学拓殖科校友会『拓友会』を結成した。

 本会が誇りとすることは、当時各学部卒業生による校友組織(戦前の学友会)は全て消滅している中で組織化された校友会は、我々が結成した『拓友会』のみであったことである。

 次いで昭和24年4月には前記『日本大学桜門倶楽部』が大学当局の要請により発展的に解消し、「日本大学校友会」として発足した。これに伴い、『拓友会』も校友組織の一機関に認められ、部会校友会として加盟した。

 これに先立つ半年前の昭和23年10月には、農学部第一回卒業生によって畜産学科校友会(満喜葉会)と農業経済学科(現食品経済学科)校友会(いもづる会)が結成された。

 昭和26年4月、拓殖科校友会(拓友会)と前記、畜産学科校友会(満喜葉会)、農業経済学科校友会(いもづる会)とにより「日本大学農学部校友会」を結成した(会長に工藤正城氏、事務局長来米速水氏推挙される)。これによって「日本大学農学部校友会」は日本大学校友会農学部部会として「日本大学校友会」に正式に加盟した。

 その後、林学科(林学校友会)・水産学科(桜水会)・農学科(農学校友会)の各校友会が相次いで設立され、農学部校友会の一分会として加盟、昭和28年には既に昭和26年に日本大学農学部と合併した東京獣医畜産大学(現獣医学科)の校友会組織であった「角笛会」が農学部校友会に加盟し「農獣医学部校友会」と改称された(会長に工藤正城氏推挙される)。

 以後、昭和29年10月に農産製造学専攻(現農芸科学科)校友会(紫友会)が、昭和38年には農業工学科校友会(工学会)が、昭和41年には食品工学科校友会が、昭和50年6月には短期大学部農業科校友会(むつあい会)がそれぞれ設立されると同時に「農獣医学部校友会」の一分会になり、今日の隆盛にいたっている。

 なお、この間の昭和38年には当時の農獣医学部校友会会長工藤正城氏が「日本大学校友会」副会長に推挙されたことは特記されよう。

 以上が「拓友会」結成に至る概要である。

 拓友会は、昭和22年の結成当初から後続する会員の無い校友会として発足したため、分会としての分担金の納入をはじめとする本会運営の諸経費等全てが会員、とくに役員の寄付金によってなされ、会の維持には多大な苦労があったことを付言する。

 昭和26年4月の拓友会役員会において“拓植学科復活運動を展開する”ことを決議し、その実現に向けて本会の全力を投入することになった。これにより12年間にわたる会員の努力が実って、昭和36年4月農業経済学科(現食品経済学科)内に拓植専修コースを設置、引き続き昭和38年2月に農獣医学部に『拓植学科』が開設されたのである。

 昭和40年3月卒業生を新入会員として迎えることができた。爾来、毎年多くの会員を加えて学部校友会の中核的な分会として今日に至っている。

 さらに、昭和62年度より「日本大学農獣医学部校友会」会長に、拓友会々長庄川洋一氏が選出されている。

 平成8年4月より学部名称が「生物資源科学部」、学科名称が「国際地域開発学科」にそれぞれ改称されたが、本会名称は引き続き『拓友会』とすることになった。